2018年10月3日水曜日

野生も家畜も「かわいそう」なのは、人が「共感」する動物だから。



なかなか秋らしくなってきたここ最近。
お天気がいいと暑いくらい暖かい日もあるけれど、
日が落ちると一気に冷え込みます。。冬が近いなあ~。
だけど秋のスッキリした空気はいい感じで、
牛たちもなんだか過ごしやすそう^^


いつものことですが、
ブログを書きだすと思考とか伝えたいこととかがあっちゃこっちゃいってしまって、
結局1つの出来事から1本のブログにまとめるのに1週間くらいかかっちゃうことが多いのです。。
なので今日の導入は先日9月26日のことから!


この日、井上牧場では牛さんのお引越しがいくつかありました。
まずは次回サンクスビーフの1579ばんを送り出すため、
放牧場へお迎えに。



声をかけるといちばんにやってきたのが彼でした、
さすが年長さん、えらいねえ~。


いつものごとく、
「すんなりついてきたらトラックにのせられてしまうんだよ…」と思いつつも、
手間がかからなくてありがたいし、
ひとなつこくてかわいらしい彼。



27日の本日、これまでの牛くんたちと同じように、
名寄の工場へ向かうトラックに乗っていきました。
と畜するのは明日。
今晩から明日のそのときまで、どんな気持ちで過ごすのかなあ。


彼のことについてはまたお肉の販売など決まったときにでも、
紹介したいと思います。


それから、出産を控えている育成牛たち数頭を放牧場へ。
井上牧場の放牧期間は雪が降るまで、なのですが、
残り僅かの秋に若いプレママ牛ちゃんたちを外で遊ばせてあげようという配慮でしょう。
(牛舎内の牛の数が減るとお掃除も楽だし…という人間の都合もあります!)


牛舎内から外へ牛たちを連れ出すときは、
いきなりたくさんの牛を一気に外まで出しません。
彼女たち、ちょっと広いところに出てくると興奮して走ったり暴れたりするので、
牧場のひとびとがケガしたり、設備が壊されたり、敷地外へ脱走するのを防ぐためです。


(この様子を北海道弁で「おだつ」と言ったりします、
なんか、調子にのってさわいだりしている、ことです笑
本当に彼女たちが調子にのってるかは不明ですが、私たちにはそう見えます!)



↑牛舎のなかから一旦外の待機場で待機してもらいます、
きちんとした鉄枠で閉めきることができるので、さわいでもちょっと安心!


この待機場に出てきただけでも「おだち」ます(そのように見える。。)。



お出かけ予定の全員が待機場に集まったら、いよいよ外へ。
いつも搾乳牛舎のお母さん牛たちが通る道を、
全8頭のプレママ軍団が走り抜けていきました…。
あまりにも早すぎてその様子は撮影できず…。
↓既に放牧場にいた男子たち、ちびっこ女の子牛たちとごちゃまぜに…
全頭で放牧場内を走り回ってました、そう、おだっています(多分)。



そしてこの頃、
たまたま「ワイルドライフ」という番組を見かけました。
この日の主役は北極の白オオカミ。
白オオカミが群れで生活するので、
おそらくナワバリの中で子育てしていた別群れのメスを見つけて、
小さな子どもを殺してしまうこととか、
同じ場所で生きるウサギやキツネ、
それからカモメやふくろうの様子。
北極には高い木がないからなのか、
カモメやふくろうは草原の真ん中に巣を作っていて、
いかにも肉食動物の餌になりそうな感じとか。



こういった野生動物のストーリーをみていると、
ついつい食べられてしまう草食動物を応援してしまうけれど、
群れの中で子育て担当だったメスオオカミがやせ細って死んでしまうシーンもあった。
そりゃ肉食動物も大変だよね。。。



食べられる方の動物だって、
食べられない方の動物だって、
どっちも「かわいそう」だって、
ついつい思ってしまいます。



野生の動物や自然を題材にした映像をみるとき、
その反対に、
いつも家畜として暮らす動物たちのこと、
井上牧場で暮らす牛たちのことを思い出します。



野生の暮らしは、自由だけれど生きるか死ぬかの厳しい世界。
それにくらべて家畜の暮らしは、
食事や寝る場所なんかはある程度確保されていて、
危険からも守ってもらえて、
安心して毎日を送ることができる、
結構いい暮らしなのかもしれません。



その代わり、と言っちゃなんですが、
家畜として生まれてきたこの牧場の牛たちは、
いつか食べられてしまったり、
何度も出産させられたり、
お乳を搾り取られたりするよね。
乳牛を飼育する酪農家では、
お母さん牛と仔牛は、産まれてから数時間の内に引き離してしまうところが多いです。
井上牧場でも、そう。



こんな状況もまた、
「かわいそう」だなって、思ってしまう。


私の使う「かわいそう」という気持ち、
国語辞典で表記されている意味とはちょっと違うのかもしれないですが、
私自身は牛たちの感情、気持ちを考えて、
「もし自分だったら…」を想像して悲しくなったときに使う言葉。
だけどそもそも、
他人の考えていることとか感覚なんてわからないし、
人間ですらない彼らの感情とか気持ちなんてわかるはずもなくて、
想像した感情や気持ちそのものが、
もう私、人間の勝手な想像でしかないんですよね~。



↓これは、昨日牛舎の中から何頭かの牛たちが放牧場へ引っ越ししたところ、
みんなまとめて走り回っている様子。
勝手なワタシは楽しそうだなって想像してます。
だってなんだか、楽しそうでしょ笑





山にいるクマとか鹿とか鳥を捕まえて食べることも、
飼育している鶏とか豚とか牛とか羊を繁殖させたり、食べることも、
全然悪いことじゃない。
むしろごくごく当たり前で、必要なこと。
だから、
命をくれる動物たちの気持ちなんて、いちいち考えることはない。



いちいち
「ありがとう」とか、「かわいそうだ」って思わなくても、
最低最悪な人間ではないです。
この世界の命はみんなつながっているからね。
誰かが誰かの命をもらって生きていて、
だから誰もが生きている。



じゃあ、
この、たとえば「かわいそう」、のような、
相手の気持ちを想像してちょっと辛くなるような気持ちがなくなってしまったら?
頂いている命のことなんて、
この世界の人たちがみんな考えることをやめてしまったら?



人間は頭がよくて、
手先が器用で、
この地球、この世界で結構大きな力をもっている。
だけどもし、
その力を好きなだけ、そのまま使い続けていたら、
きっとその内人間という種も消滅してしまうと思うんです。
(これ考えていると天空の城ラピュタとエヴァンゲリオンのこと思い出す…!)



だけどそんな人間たちが住む世界が、
今も続いていて、
この先も続いていけるとしたら、
私たちが自分ではない存在に対して、
想像力とか、感情移入できる力があるからなのかもしれないなあと、
最近考えるようになりました。


家畜として生まれて暮らす
牛たちの気持ちを全く考慮しないとすれば、
より狭い場所で、
粗末な食べ物を与えて、
とりあえず生きてさえいればよくて、
お母さん牛にはどんどん出産してもらって、
何度も何度もお乳を搾って、
妊娠できなくなったりお乳が出なくなるまで飼育して、
いつだって人間の好きなときに命を頂戴すればいい。


それでもなんとなく、
家畜たちのことを考えてしまったり、
気持ちを想像することができるのは、
人間の持つ大事な力。



経済性とか、利益のことばかり考えてしまうと
ついついおろそかになってしまうけれど、
本当に長い目で考えたときにめちゃくちゃ大事な、
だれかの気持ちを考える想像力。
井上牧場にも、そんな気持ちをついつい忘れてしまわないように。
プレッシャーをかけていきたいと思います^^


井上牧場が今後ますます、
土、草、牛、人、
みんなのことを考える牧場でありますように!

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